Jorgeの日記

備忘録と記録です。

一番思考が走る配列/qwertyローマ字

【薙刀式】筆記用具の思考への影響: 大岡俊彦の作品置き場

薙刀式の作者さんにコメントもらえてるからせっかくだしこの辺についてさらに補足しておく。

この記事の内容は私自身でも整理しきれていない部分なので、各項ごとに矛盾する内容も含む。これを書き記すことに意味があるのかはかなりの疑問だが、議論がそこにかかってしまっているので、一応……。

qwertyが一番思考が走る

そう、私の場合はqwertyローマ字が一番思考が走る。ある種の慣れなのかもしれないけど、かな入力(といっても薙刀式しかやったことがないからこの場合は薙刀式を指してるけど)だと、打鍵数が少なすぎて、なんだか物足りないなぁ、みたいな感覚がある。

自分の中で基準がqwertyローマ字側にあるからだとは思う。

思考が走るというか、より正確な表現をするなら、「テンションが上がる」。たくさん手を動かして、たくさん手から触覚フィードバックを受けることで、達成感と満足感を得られる。それが気持ちを上向きにしてくれて、よりよいアイデアが出てくる。

私はそもそもタイピングというものが相応に好きなので、好きなことをやっていると楽しくて思考が走る。

ただこれは、qwertyローマ字の特性によるものではないと思う。私が一番慣れている入力方法がqwertyローマ字で、私が一番速く文字を入力できるのがqwertyローマ字だからそうなっているだけだ。

そう、あえて「思考と入力方法の相性」というものの構成要素を考えるのであれば、「入力速度」×「その人にとっての自然さ」だろうか。

こう言い切ってしまうとあまりに取りこぼしが大きすぎる気がするが、無理やり整理するならこういう形になる。

入力速度と思考

思考は文字より先に、どんどん進んでいく

前記事と矛盾するようだが、入力した文字を目にすることで初めて「ああ、私はこういうことを考えていたのか」と認識することも多い。そうしたことを考えるときに、入力速度は無視できない。

思考はどんどん進んでいく。素早く入力できなかった部分が待ってくれるわけではない。言語化出来ず、文字として拾い上げてあげられなかった思考は、そのまま流れていってしまう。そうした部分がある以上、どれだけ思考を素早く文字に残せるかという部分(短距離速度)は私にとっては無視できない。

文字化しなければいつまでも思考の容量を食う

前項と矛盾するようだが、逆もある。

一度文字化せずに流れていってしまった思考が、再び浮かび上がるのだ。ここで拾い上げられなければ、またすぐに浮かび上がってくる。いつまでもいつまでもその思考に脳の容量を割かれ、他のことを考える容量を空けることが出来ない。思考が渋滞する。

更に悪いことに、まだ言語化されていないために、良し悪しの検討も出来ない。

なんとなくいい感じかもしれない、くらいの言語化されていない1つのアイデアが、いつまでもいつまでも脳に浮かび続けて、他のアイデアが出てくるのを邪魔する。

さっさと文字にしてしまう。文字にすれば検討が出来るし、検討して良ければ良しとして、悪ければ悪しとして次のアイデアに進むことが出来る。なんなら検討までせずとも、文字にしておけば形に残っているので後回しにできる。

とにかく思考を素早く言語化してしまい、脳の容量を空けること。そうすることで、新しいアイデアを思いつくことが出来る。

ここでもやはり、短距離速度が必要になる。

感覚としての自然さ

qwertyローマ字で育ってしまった

幼少期から外国語に触れ、母国語として複数言語を使うことができるバイリンガルの人と、大人になってから外国語を勉強した人。仮に後者の人が前者の人より表面的には堪能であっても、言語に対する「思考の自然さ」のような部分に差があるという話を聞いたことがある。

(こうした部分を指す際に「外国語で考える」という表現を使いたいが、語弊がある。十分に訓練すれば外国語で考えて外国語で話すことはできるようになる。)

うまい表現が見つからないが、「幼少期から親しんできた」ことが完全に自分の中で「自然」に定着しているのに対し、ある程度年を重ねてから始めたことはどれだけ上達してもどこか「不自然」なものとして自分の中に位置づけられてしまう。

ダグラス・アダムスの法則
1)人は、自分が生まれた時に既に存在したテクノロジーを、自然な世界の一部と感じる。
2)15歳から35歳の間に発明されたテクノロジーは、新しくエキサイティングなものと感じられる。
3)35歳以降になって発明されたテクノロジーは、自然に反するものと感じられる。

これ自体の信憑性は置いておいて、しかし何を「自然な」ものだと思うかは、幼少期の経験というものがかなり大きな要因になりうる。

あるいはそこまではっきりと二分されるものだとせずともいい。単純に幼少期のほうが物覚えがいいので、幼少期の10年の経験と、大人になってからの10年の経験では、定着の度合いがまるで違う。これでもいい。

何がいいたいかというと、私はqwertyローマ字で育ってしまったのだ。仮にそれが理論上効率の良いものではないとしても、それで育ってきてしまっているのだ。

人の文字入力の歴史を考える。筆からはじまり、つけペンがあり、万年筆があり、ボールペンがあり、ワープロがあり、パソコンが台頭してキーボード入力というものが行われるようになり、最近ではタッチパネルのでの入力(ソフトウェアキーボードやフリック入力)が主流になってきた。

この中のどれを「自然な」ものだと思うか。この中のどれを「新しい」ものだと思うか。

私にとっては、キーボード入力、qwertyローマ字というものは幼少期から親しんできた入力方法であり、この入力方法とともに日本語を学んできた、「自然な」ものだ。良し悪しではなく、そういう位置づけの入力方法になってしまっている。

あまり具体的な年数を言うと年齢がバレるので控えるが、すくなくとも小学校に入る前からパソコンでローマ字入力をしていた。つまり、漢字を覚えるよりも先にローマ字を覚えていることになる。よく覚えていないが、ひらがなやカタカナといっしょにローマ字を覚えたような気もする。

そこからまぁ……それなりの年月、qwertyローマ字を使い続けてきている。qwertyローマ字と一体型ロウスタッガードで文章を覚えてきたと言っても過言ではない。

幼少期の経験がもたらす記憶の濃度というのは、並大抵のものではない。仮に成長してからの経験で挽回できるものだったとしても、同じだけの年月では追いつけないだろう。ただ使えるようになるだけなら、効率的に習得することで習得可能かもしれない。しかし完全に「自然に」自分のものとして感覚になじませるには、2倍、3倍の時間が必要になるはずだ。

すでに「自然な」ものになってしまったのだ。

前記事では「思考があり、入力内容が決定され、ローマ字に変換し、実際に入力される」と書いた。理屈で考えればそうなっているはずである。というか、そうなっていなければ入力はできない。

しかしそのほとんどは無意識下で行われてしまうため、自分では認識できない。結果として自分の感覚としては、「思考があり、言語化があり、文字がある」くらいのテンポになる。完全に無意識下に沈んでいるため、ローマ字は感覚上、存在しない。

そのくらい私にとってqwertyローマ字は「自然」なものだ。もちろん、脳内発声もない。

他の入力方法

手書きってどうなの?

誤解を恐れずに乱暴な言葉を使うと、私にとっては「手書きはクソ」だ。片手しか使えないし、長時間書き続けると無視できない疲労が蓄積される。修正はしづらいし、最終的な成果物にする際に結局デジタル化が必要になる。

一方で、これまでの人生で書いてきた文字の量を考えると、流石に私でもqwertyローマ字より手書きの文字のほうが多いと思う。そう考えると私にとって「自然な」ものではある。

しかし思考を整理するツールとして考えると、足りない。私にとっては「自然」ではあっても「入力速度」が足りないツールだ。具体的に測ったことはないから数字は出せないが、手書きだと思考がボロボロこぼれていくし、思考が渋滞する感覚がある。

手書きが嫌いな訳では無い。筆記用具などにも強いこだわりがあり、いろいろと試してきた。

ちなみに今は手書きのときは紙はMarumanのルーズリーフとPlusのCaCrea、ペンはY-factoryさんの木軸の本体にサラサのブルーブラック0.7を入れたものを使っている。

タッチパネルってどうなの?

思考をまとめるツールとしてはダメ。私が使う上では、シンプルに入力速度が足りない。

あと触覚のフィードバックがないために、常に入力部分のUIを意識の片隅においておく必要がある。脳と視野を無駄に使う。

とはいえ入力方法を模索するのは好きで、色々試してきた。今はアルテ日本語入力のターンフリックを使っている。

じゃあqwertyローマ字を使い続けるの?

いや……別に……? 

なんでこんな非合理な入力方法に縛られなきゃいけないんですかと思うし、もっと速く入力できれば拾い上げられる思考というのもあると思う。

更に言うと、新しいものを使いこなしていることで上がるテンションというものもある。新しいもの試すの好きだから。


ということで近いうちに月林檎配列を始めようと思う。